存在の時間

存在のお時間ですよ!

あなたが与えた私を生きるーーー存在を授与し合うということ

 私のことが好きだ?私のことなどよく知りもしないくせに、と君は言う。

 好意は、相手を知ることで初めて生まれる場合もあるが、相手を知るための関係の入り口である場合もある。そして大概、私たちはこの好意を正当化しようとする。それが相手に対する勝手な期待であってもだ。

 けだしそこには、ひととひととの交われなさ、幻想を纏っていない本当の姿をした相手と出会うことの難しさ、涙を飲んでそれに耐えながらもなお相手の傍にいたいと願ってしまう、そんなのっぴきならない事情があるのかも知れない。しかしその幻想から脱せないという不幸な事情が、もし人間に無限の可能性を与えるとしたら、と私は最近考えるのだ。

 

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 私は好意を持たれることが極端に苦手だ。偽物の私に期待されている気がしてしまうからだ。それは私に対して悪くない感情を持っているということであっても、もし相手の中の、相手が好意を寄せている自分が「はにゃ〜んご主人様ぁ~~」というような人格だったらどうしようという恐怖は常に付きまとう。あまりに自由な「私」に、私はぞっとしてしまう。

 私は「はにゃ〜んご主人様ぁ~~」とは言わない。それが私の考える「ほんとうの私」だ。しかし、相手の世界に存在している私は「ほんとうの私」とはほとんど何の関係もない。だから勝手に、私のことを「はにゃ〜んご主人様ぁ~~」などと口走る人間だと思い込むことも可能だ。

 「そんなの自分じゃない」。この台詞はどんな時に絞り出される悲鳴だろうか。ひとつに、相手があまりにこの私とずれた人物像を私に抱いている場合だ。しかしそれだけでは無い。「私」が「私」に対して抱いている幻想と乖離した自分を突きつけられた時にも、ひとは居心地の悪さや恐怖、怒りを感じる。相手によって顕になった「私」は、隠されていた自分なのかも知れない。即ち幻想を抱いていたのは相手ではなく自分だったというわけだ。

 こうなると最早どちらが幻想を抱いていようが、「ほんとうの私」同士で交わることは出来ない。私や相手が見ている自分がほんとうか偽りかはどうでもよいことなのかも知れない。どうでもよいことと言うと語弊があるが、私たちは自分が思うよりもずっと自由だし、どんな姿にもなれてしまうのだ。

 誰かを好きになることは、美との邂逅だ。その瞬間には生の煌めきがある。誰かが花を見て綺麗だねと呟いたら、ああ、綺麗だねと共感を寄せることは愛だ。たとえ全く違う花、いや犬のうんこが見えていたとしてもそれは愛だ。だから相手の幻想の中の自分を愛することは、循環して相手を愛することでもあるのかもしれない。

 ほんとうの私、ほんとうの相手に出会うことがお互いに難しいからこそ、幻想を授与し合うことが出来る。新しい自分を相手から授与されることで、どこまで行っても未知な自分であることを自分に許すことが出来る。それは言わばどんな自分でも良いと自分自身に対して言うことでもある。こういう自分でなければいけないという有限的な自分への愛から脱して、より深く自分を愛せるようになるかも知れない。だからこの一見救いようのない交われなさは、不幸な事情などではなく、人間に許された無限の可能性なのだ。

 私のことなどよく知りもしないくせに、と君は言う。君のことをよく知らないのは君自身かも知れないのに。もちろん、私がほんとうに君をよく知らないのかも知れない。しかし、もはやそれはどうでもよいことなんじゃないのか。自分の幻想にいつも付き合ってるかもしれないのなら、たまには誰かの幻想に付き合ってみるのも悪くないかも知れない。もっともそれは、新しい自分を受け取りたいと望んだ時しか叶わないだろうけど。

 

 

 

 

 

はにゃ〜んご主人様ぁ~~