大人になれる日
大人になることは嘘つきで、筋が通ってない、不誠実で残酷でわからず屋な人間になることだと思っていた。
そういう人間を憎んで、軽蔑していた。
大人が間違っていて自分が正しいと思っていた。
自分はいつかそういう人間に「なってしまう」のではないかと恐れていた。
嘘をつかず、筋の通ったことを言い、一度言ったことは変えず、気持ちや決心も絶対に変えず、うっかり人を傷つけたりせず、人の気持ちや立場をきちんと理解し、それこそが賢さで、そういう理想を持って生きている自分こそが正しくて、そうできない人間のことを見下していた。
だから、自分がそれらを出来なかった時、私は自分を心の底から憎んだ。
失敗ばかりのしょうもないクソ両親や世の中の馬鹿な大人そっくりな自分は死ぬべきだと思った。
でも朝から晩までそうやって虐め抜いているしょうもない自分、変えたくて変えたくてたまらないそのしょうもない自分こそが自分の実際の姿であって、その無力な自分のことを受け入れられないばかりにまた高潔な理想にしがみつくことになった。
まだ私は「なってしまう」ことを恐れていた。「なってしまう」のではなくもう「なっている」のに。
既にそういうしょうもない自分を生きているのに、しょうもなくないフリをしていた。
本当の自分に会う勇気がなかった。
だからずっとひとりで待っていました。
誰も来ない夕暮れの保育園で。
誰も迎えに来てくれなかったんです、失敗ばかりしている頭が悪くて無力なデカい子供の自分を。
クソ両親そっくりでムカつくからという理由で会いに来てくれませんでした。
私は私の存在から目を逸らして、正しくて素晴らしい自分を生きようと必死になっていました。
自分を高潔な理想から解放してやって、失敗ばかりの本当はしょうもない自分を許す、ただそれだけのことが、どうしようもなくどうしようもなく出来ませんでした。
人間を正しい人と間違っている人に分けて、間違っている人間を正義のアンパンチでシバキあげるのは一番楽で簡単で頭使わなくて済むし3歳児でも出来るのに、なのにそれをやっている自分の方が目の前の間違った大人より頭がいいと思っていた。
でもその思い込みは、しょうもない自分を見ないでいるための手段でしかない。
正しくて素晴らしい自分という幻想は私を守ってくれたのかも知れない。
私を生み、この人生という理不尽な状況に置いた不完全なあの大人たちと同じように自分は不完全だということを認めるのは、とても苦しいことだったのかも知れない。
でもそれは、不完全な自分を認めれば、あの不完全な大人たちのことも憎まずに済むようになるかも知れないということでもある。
しょうもない自分でも、ここにいていいんだと思えるようになるかも知れない。
ちゃんと出来ない罪深い自分でも、幸せに生きていいんだと思えるようになるかも知れない。
人を愛したくても愛せない、間違えて余計なことばかりして傷つけて、でも相手の幸せを祈る無力な自分でも、尊いと思えるようになるかも知れない。
それが出来たら大人ってことなのかも知れない。