眼差しの責任について
一人で百円寿司に行った。無性にあの茹でたエビが食べたくなってのことだった。
寿司が流れるレーンの向こう側の席で、絵に描いたような幸せそうな父親と母親と10歳ぐらいの女児が寿司を食べている。
流れてきたたまごを食べていると、女児がじっとこちらを見てきた。軽蔑するような眼差しであるように思えた。私は恐ろしくなって一瞬動きを止めてしまった。なるほど、両親に愛され、わざわざ連れられて寿司屋に来ているこの子供にとっては、一緒に食事をするような家族もなく一人で物を食べている私など哀れで汚らしい存在なのかもしれないと思った。
しかし、どうだろう。実際に私を哀れで汚らしいと思っているのは他ならぬ私自身であるような気もしているのだ。
眼差しが対象の在り方を規定するとしても、そもそもそのこちらに向けられた眼差しがどのような眼差しであるかを解釈しているとき、私たちは見る側でもあるのだ。
見る側と見られる側の違いは常に曖昧だ。互いの立場が曖昧である以上、どちらかに責任を求めることは無理がある。
もしかしたら、私も女児が規定しようとした内容に逆らって「哀れで汚らわしい」となったのかも知れない。
「あっ、こいつ、箸の持ち方が間違ってる。行儀悪いな。」とか、
「こいつ全く生モノ食べないな。さては好き嫌いか?」とか、
そういう内容で私を規定しようとしたのかも知れないのだ。
つまりこの記事で何が言いたいかというと、
誰かそのうちご飯行こう?(ハイパーめんどくさい奴)