存在の時間

存在のお時間ですよ!

夢の終わり、愛の続き

普通の自分を生きることが出来なかった。
普通の自分を切り離して、馬鹿にして、
普通ではない自分しか認めることが出来なかった。
普通ではない経験をした人間は、普通ではない生き方をしなければならないと思っていた。
とりわけ人から見上げられるような、高尚な生き方をしなければならないと思っていた。
滋養に富んだ苦しみを飲み干して、俗的ではない彼岸の存在にならなければいけないと思っていた。
そうしなければ、異常な体験に苦しんだ自分が報われないと思っていた。
自分の人生の普通ではなかった部分を、自分という存在の核にしなければならないと思っていた。
苦しむことは高尚で、偉くて、選ばれた人間だけが得られる特権だと思っていた。
その実なにも持っていない現状の自分から目を背け、その苦しみがいつの日かこの生に豊穣をもたらすことを期待していた。
高尚に見える自分しか、好きになれる自分が他にいなかった。
まんまと騙されて私のことを高尚な人物だと思い込む人がいた。
普通の自分だけでなく、俗的な生き方をしている人、
高いことに興味がない人間のことを「主体性がない」と言って馬鹿にしていた。
何かを馬鹿にすることでしか維持できないような脆い自己肯定感で生きている自分のことですら、
中二病と言って適当にせせら笑って誤魔化していた。
でも実際は、
酒ばっかり飲んで、定職にも就かず、
育った家もぐちゃぐちゃで、
腕は子供の頃に傷だらけにして人前で出せないし、
義務教育は半分くらい受けていないし、
気持ち悪いオタクで、むっつりで、
簡単に人を信用して、それでいて誰にも心を開かず、
それすらも芸の肥やしだと無理に思い込もうとして、
人間関係はおかしいし、被害者意識に満ちていて、
自分に関わってきた人を思いやらず、傷つけるか逃げ出すかの二つしか出来ず、
本当は努力なんかしないで素晴らしい自分になりたいと思っている、
尊敬できる要素なんかかけらもない、
もう誰もが逃げ出すような、
生きていてもしょうがない、
社会的には最低の存在だ。
だから普通に生きられたときは嬉しかった。
普通のことを楽しいと思えたときは肩の荷が下りた気がした。
普通のことを楽しいと思っている自分を馬鹿にせずに済む生活はこんなにも素晴らしいのかと思った。
自称高尚な人々から馬鹿にされても良いと思えた。
何かを馬鹿にしなければ気が済まないような自己肯定感の低い自分や、
自己肯定感の低い自称高尚な人々の眼差しに怯えずにこれからずっと暮らせたらどんなに良いだろうと思った。
 
私は今まで自分が高尚だと思っていたことから離れた。
学問のことも本のことも考えなかった。
高尚でありたいという意識を捨てたときに、どんなふうにそういうことに向き合えるのか興味があった。
違う向き合い方があるのかないのかを知りたいと思った。
今まで通りの向き合い方では、自分を幸せにすることは出来ないと思った。
幸せを最終目的とするべきかどうかということを差し置いても、
今までのようなやり方で生きたとしても偽りの人生でしかないと思った。
 
自分を好きになれるだとか荒唐無稽な希望を持っているわけではない。
自分を好きになる日は来ないと思う。
でも普通のことを大切にできれば、自分を嫌いながらでも幸せに生きることができるような気がした。
今の自分を否定して、高い自分という幻想を生きることの中に幸せはないと思った。
だからそういうやり方とは、距離を置こうと思っている。
そうではない向き合い方がわかったときに、また改めて違う自分で本や学問に向き合うことができると思っている。