生を祝福するということ
こんな日だし久しぶりにブログでもと思い、編集画面を開いた次第である。
言葉は怖い。私はこれを書くのに慎重になるだろうけれども、もし読み手に痛みを与えたのなら申し訳なく思う。そのような恐れも持っていることも最初に伝えておきたい。
正直なところ、私にとって「生まれてきてよかった」と言うことは、とても勇気の要ることである。
それは例えこの人生を愛していてもだ。
もし生まれる前に戻って、全く別の人生を初めから生きる自由を与えられたとしても、またもう一度この人生を選ぶかと自分に問えば、黙ってしまう。即答できないのだ。
しかし、このままでは本当に自分の人生を愛しているとは言えないのではないだろうか。
生の肯定は、力づくでなされるようなものでは無い。それがどんなに強い苦しみがある人生だとしてもだ。善悪の解体がなされれば、その生への肯定は自然と湧き出てくる。
悪いことなどひとつも起きなかった人生を肯定することに、勇気など必要だろうか?私がこの生を心から肯定するために最も成すべきことは、もっと徹底した善悪の解体だろうと思う。
いやいや、でもむしろ、何度も捨てようとしたこの生を、終わってもまたもう一度生まれてきたいと渇望できるような生に出来るように、哲学や文学と戯れつつ、自惚れたり苦しんだりしながらあれやこれやしてみる生、それこそが自分にとってはもう一度生きたい価値ある生なのかも知れない。
じゃあ、言っても大丈夫だろうか。「生まれてきてよかった」
そして「27年前の今日に誕生できておめでとう、自分」
あっ、でもこれだと軽やかさが足りない気がするから、じゃあ向こう一年の目標として深刻病も治したいな。(贅沢)