存在の時間

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底なしの不安/寂しさについて

底なしの不安や寂しさについて、ほんの思いついたことを書きたいと思う。

底なしの不安とは、「こうなったら安心だ」という具体的な安心の基準が存在しない不安のことである。

多くの不安は具体的な安心の基準を持っているように見える。しかし、その基準は必ずしも本物とは限らず、安心の基準に状況が達してもまた新たな不安の材料が現れることもある。つまり安心の基準が見せかけであるということだ。この場合、その不安は「底なしの不安である」と言うことができるだろう。

そして底なしの不安は、具体的な安心の基準を持っているように見えることが多い。

 

その一つの例として架空の人物を想定するとしよう。

底なしの不安を抱えたAさんである。

 

Aさんは愛する恋人がいるが、その恋人には親しい女友達がいたとします。Aさんは恋人を取られてしまう不安のあまり、その女友達と関わるのをやめてほしいと恋人に言います。恋人は女友達と関わるのをやめ、その分Aさんと多く接するようになりました。するとAさんは、恋人の仕事が忙しくて、恋人はその分私に注意を向けていないかもしれないと思い始めます。恋人に仕事を辞めさせ、ずっと一緒にいるようになりました。するとAさんは、恋人は私よりも自分の命のほうが大切かもしれないと思い始めます。Aさんの恋人はAさんを安心させるために命を捨てて死んでしまいました。Aさんは恋人が存在すれば安心できると思いましたが、恋人はもう死んで存在しません。

 

このように、一見具体的に見える「不安の原因」を取り除いても、また新たな不安の原因が眼の前に現れるような不安、これを私は「底なしの不安」と呼んでいる。

底なしの不安は、安心の基準が存在しない。

ここで私は思った。安心の基準が存在しないなら、逆に、どうなったら不安なのかという具体的な不安の基準も存在しないのではないだろうか。安心な状態と不安な状態を分かつラインが存在しないなら、どこからが安心なのかわからないし、どこからが不安なのかもわからないのだ。

しかし、底なしの不安を抱く人たちは、具体的な理由を上げて「だから私は不安だ」と言う。

「恋人に女友達がいる」「恋人が出張に行く」「恋人からの返信が遅い」…

これらも、一見具体的なものだが実は不安の本物の原因ではない可能性がある。先程書いたように、ちょうど具体的な安心の基準が本物ではない場合があるのと同じように。

だから私はとりあえず提案してみたい。(ちょうど底なしの不安を抱いてしまっている自分自身に対して)

「具体的な安心のラインがないことに気づいたのなら、具体的な不安のラインもないものとすること。つまり、安心基準が見せかけ(ダミー)であれば必ず同時に目の前の不安材料も見せかけ(ダミー)だから、そのダミーである不安材料のために不安になる価値があるかどうかを考えてみる」

これで底なしの不安が解決するかどうかを見てみたい。(報告するかどうかは気まぐれ)

 

 

(あっ、私の底なしの不安は恋愛絡みのものではありません。)